無線LAN普及へ国が補助金

 東日本大震災の経験から、災害時や緊急時などの回線確保は重要なインフラ整備であることを痛感させられた。携帯電話の基地局が被害を受けていなくても携帯電話が繋がらない、固定電話も同様で、通信キャリアだけに頼る危うさを感じさせられたのである。そこでようやく国も自治体単位での災害時の通信網の確保に、公衆無線LANの普及に補助金を出すことを決めたようである。

無線LAN普及へ国が補助金…災害時や五輪向け(YOMIURI ONLINE)
無線LAN普及に国が補助へ 災害対策で総務省概算要求(朝日新聞DIGITAL 2013.8.26)

 ちょうど暮れのニュースなので、讀賣新聞以外にIT系の同じニュースが見当たらないのだが、Wi-Fi整備に補助金の話は何もこれが初めてではないようだ。ただ昨年秋の2020東京五輪の誘致決定に絡めて、よりその機運が高まったというところか。1964年の東京五輪の時には東海道新幹線首都高速が整備されたという。今回は情報ハイウェイたるWi-Fiを整備というわけだろうか。


 もっとも日本は公衆無線LANの普及は海外に比べてすでに遅れている。受け入れる社会ではなくて、結局通信キャリアの既得権を優先する余り、無料の公衆無線LANは都合の悪いことになりかねないからだろう。ところが海外から日本を訪れた外国人からすると、街中でWi-Fi接続が容易にできないことに驚くのだという。逆に日本から海外に出た人は外国では公衆無線LANが整備されていて日本との違いを痛感するという。震災時の教訓に始まり、2020五輪で東京を訪れる外国人の「おもてなし」のためにも公衆無線LANが無いのは不味いという動機も出てきたのかもしれない。


 それにしても自治体個々に申請させ、補助金をバラまくというやり方は公共事業か、20年以上前の「ふるさと創生」事業を思い出してしまう。お役所というところはつまるところ予算配分をするだけといえばそうなのだが。、もっと地域を災害や事故といったものに対してタフになるように整備する計画の一環としての公衆無線LANの整備となってほしいものである。

新型iPhone料金が競争始まる

 ドコモからもiPhoneが販売されることになって、ついに販売も始まったが案の定品薄状態のようで、ここは慌てて契約に走る必要もなさそうである。すでにスマホ自体が陳腐化しつつあり、いち早く手に入れることがあまり意味のないことになっている。むしろ数年使うことを想定して、料金を含めてどういうプランの選択や使い方をするかを見極めた方がよいだろう。

新型iPhone料金競争始まる KDDIは既存ユーザーに手厚い優遇策(ITmedia)
新型iPhone販売 緒戦はソフトバンク勝利 ドコモ、販路整備遅れ“弾切れ”(9.25)
iPhone 5s/5c、「ドコモで使いたい」が過半数 その理由は(9.19)

 数年前、自分のガラケーの調子が悪くなり、消極的ながらこれを機にスマホに切り替えなければダメかなと思いながら、ガラケーの修理を含めドコモの窓口に相談に行ったことがある。ガラケーは復活したが、そのときはスマホテザリングワンセグの両方の機能のあるものという条件を付けると機種が限られてくることがわかった。それ以上にテザリングをやると月に1万円を超える料金になりそうだという算定で、きっぱりと諦めた。自分の感覚では、とても標準的なインターネット接続料金とは思えなかったからである。窓口では「ドコモがiPhoneを出すことにでもなったらまた考える」と言い残して帰ってきた。


 当時とは状況が変わり、ガラケーのままだがWi-fiルータタブレットを持つようになってからは、ほとんどスマホの機能は必要としなくなった(AndroidiPad miniも同じWi-fiルータから接続できている)。Wi-fi利用料金も月3000円台で済む。音声通話部分だけならガラケーで十分なのであり無理にスマホに移行する必要性がない。つくつぐ電話会社が、通話料金とネット接続料金とさらには端末代までごちゃ混ぜにして料金体系を作るところに違和感を覚える。通話料では稼げなくなったからプロバイダの「フリ」をしているかのようである。しかしプロバイダだけなら安いところはいくらでもある。「値下げ」といっているがそれはあくまで電話会社の都合を言っているだけで、そもそもネット接続料金は何が適正なのかを考えてみれば、決して値下げでも優待サービスでもない。プロバイダになったのだとしたら、もっと安い方が当たり前である。


 ドコモとしては慌ててiPhoneの数を売ろうとしても無理だろう。スマホに切替え時に離れた移ろいやすいユーザを必死に奪還したいのかもしれないが、ドコモにとっては長年通信キャリアを変えずにガラケーを維持してきた手堅いユーザこそ大事にするべきで(自分もそうだが)、それらのユーザが満足する形でスマホ移行していったとしたら、自ずと離れたユーザもそれに引かれて帰ってくることだろう。ドコモのサービスは既存ユーザを大切にしない、それが最もユーザを失っている要因であろう。iPhoneのあるなしだけの問題ではない。逆にこれまでiPhoneがなかったせいにはしてほしくないものだ。

「あまちゃん」終了(その2)

 ドラマの中ではフィクションではない現実のものも多く取り入れられていた。むしろドラマのおかげで広く知れ渡るようになったこともあると思われる。気がついた「事実」を挙げておこう。


 ドラマの最後で突然、琥珀の採掘現場から恐竜の骨を発見した話が出てくる。これは全くの事実だが、これが判明したのは今年の3/29のことであり「あまちゃん」はまだ放映開始前で撮影も半分以上は進んでいた中での出来事だったと思われる。琥珀に関連してしきりに8500万年前が強調されていたが、最後に急遽これに繋げる伏線だったのだろう。

岩手・中1生発見の「指の骨」化石、8500万年前の肉食恐竜だった(msn産経 3.29)


 また主人公アキとテレビ番組で共演し「じぇじぇじぇ」と「ギョギョギョ」で掛け合い、震災で壊滅した水族館の復旧に貢献するというさかなクンも、久慈市の復興に貢献してきたのはあまちゃんの制作が発表されるよりも以前からの事実であった。ご自身のドラマ出演そのものも復興支援の一環になると考えていたのだろう。

さかなクン 岩手・久慈市の水族館再開に協力(Sponichi 2011.9.12)


 震災発生時、三陸鉄道の列車の1本はトンネル内で緊急停車した。周囲とは全く連絡が取れない状況でトンネルの外がどうなっているのか見当が付かない中、運転士は乗客を誘導してトンネル内からの脱出を決断する。いつもは騒がしくて間抜けているような駅長の大吉が、この時ばかりは冷静な判断を見せるシーンである。大吉がこの鉄道は電車でなくディーゼル車であることを嘆くシーンが以前にあったがディーゼル車だったからこそ停電せずにトンネル内で一時過ごすことができたという伏線であった。実際のご本人の証言は生々しい。

証言3・11:東日本大震災 三陸鉄道南リアス線運転士,乗客励まし誘導(毎日jp)


 そして南部ダイバーである。これは久慈市の隣の洋野町(旧・種市町)に実在する。かつては公共事業の港湾工事が盛んだった頃、人数も多かったらしい。明治の時代に当地にやってきた潜水夫からの技術が伝承され引き継がれてきたものだという。その当時までは海女のように素潜りしかできなかったのが、これにより三陸の海底での複雑な作業も可能になったということである。震災復興のための瓦礫撤去に南部ダイバーがボランティアで活躍したのも事実である。始祖は磯崎定吉という人だという。「いっそん」こと磯野先生の名前は磯崎の「磯」と洋野町の「野」から取ったものだろう。まあ、サザエさんにも掛けているかもしれないが。種市先輩は種市町から名前そのままである。種市高校・海洋開発科がドラマのモデルにもなった。そして現在でもアキのような女性潜水士を目指す生徒もいるそうである。

「あまちゃん」の舞台、南部潜り(msn産経 Sankei Photo)


 そしてその「南部ダイバーの歌」である。あまちゃんの中で「潮騒のメモリー」や「地元に帰ろう」などドラマのために作曲された曲は多いので、多くの視聴者はこれもその1つだと思っていたかもしれない。濃いキャラクターのいっそんが登場して「もっとこい、もっとこいよ」で南部ダイバーの歌を生徒が熱唱するシーンは笑いとともに、かなりのインパクトを与えた。しかしこの曲を冷静に聞いてみると、よく甲子園で流されるような高校の校歌などとは違う「何か」を感じさせるものだった。それもそのはず、この曲は昭和30年代に流行した「北上夜曲」(和田弘とマヒナスターズ、ダークダックスなどがカバー)で知られる作曲家・安藤睦夫氏(旧・種市町出身)が寄贈した歌だったのである。安藤氏は6年ほど前に他界しているというが、歌手を売り出すための歌ではなく、純粋に郷里のために寄贈した歌が、半世紀近くを経てこうした形で注目されたことを知ったらどう思ったことだろうか。ドラマで注目されたために、洋野町が公式にこの曲を公開している。まさに昭和を感じさせる「名曲」だった。



【南部もぐり】南部ダイバーの歌 フルバージョン


この動画の2分あたりに出てくる、若き日の高倉健かと思ってしまう方が磯崎定吉の子孫に当たる方のようである。


 あまちゃんは北限の海女ばかりでなく、琥珀もそうだが地元の人にとっては当たり前のものであっても、多くのものを発掘してドラマにも活かして、世に知らしめた効果があったようである。

「あまちゃん」終了(その1)

 大人気だったNHK朝ドラの「あまちゃん」が終了した。ネットの中でも多くの話題になっていた。ドラマの中には多くのネタが満載で、とても一人では理解しきれるものではない。特に芸能界ネタについては知っているかどうか、またドラマの背景になっている1980年代のことは視聴者の年代にもよってくる。多くの「分析」はあるだろうが、自分が印象に残ったドラマの背景を挙げてみよう。


 最終週は薬師丸ひろ子にやられた。薬師丸演じる鈴鹿ひろ美は「大女優」だが「音痴」で、歌う場面には出ないという設定で、結果的にはこの事実がドラマのキーになっていった。それが主人公アキの母・春子が歌声の影武者になったことから運命が変わり25年後のドラマとなっていくというものだった。至る所で音痴だとされ、ドラマの中とはいえ、角川映画の主題歌を歌ってきた薬師丸に対して随分な扱いなものだと苦笑させられた。薬師丸自身、このドラマで求められる「大女優」とは何かと考えさせられたのだという。


 そして事実上のクライマックスとなった、復興チャリティコンサートで鈴鹿ひろ美が「潮騒のメモリー」を歌う場面は、ドラマの背景をすべて凝縮しそれを溶解させるようなものだった。まるで映画のストーリーのシーンを次々に連想させる映画の主題歌を歌っているかのようだった。角川映画時代の薬師丸のポジションそのものだった。このドラマの主演は実は薬師丸だったのではとさえ思わせるものだった。まさに「大女優」の面目躍如の姿を魅せつけた瞬間だった。NHK演出スタッフにも鳥肌が立ったと言わしめている。いかに脚本が優れていても、これは薬師丸でなければここまで昇華させた表現はできなかっただろう。

チーフ演出・井上剛 インタビュー 前編(NHK)

 ドラマの画面を見ればすぐに気がつくが、大友良英バンドをバックにしたライブ歌唱である。つまり待ったなしの一発勝負である。セットは東京のスタジオでも、北三陸という設定でエキストラにはわざわざ東京在住の久慈市や東北出身者を集めたのだという。ドラマで出てくる鈴鹿の言葉の通り、このシーンに賭ける薬師丸の「気持ちを作る」ための演出だったのだろう。ただ歌がうまいだの歌詞がよいとかだけではなく、それを超えて被災地にも伝わる感動する「何か」を生み出したと思える。ドラマの中で「プロだなあ」の言葉は薬師丸の大女優としての意識を讃えたことと、「あまちゃん(アマチュア、甘え)」を対比した言葉のようにも聞こえた。


 「あまちゃん」は、新人女優の主人公を周囲の脇役が無理やり持ち上げるような、ありがちな展開でなかったところがかえってよかったように思える。実は主役級の出演者が多くいて、主人公は場面を掻き回すだけだが、主役級がしっかりとストーリーをまとめ上げるような展開に見えた。その意味では前半の主役は小泉今日子、後半の主役は薬師丸ひろ子、全体を通しての主役は宮本信子のようだった。主役級の絡みでは、自分は特に薬師丸の鈴鹿と宮本の夏ばっぱの場面が好きだった。なぜかドラマの初対面のシーンからお互い信頼し合っているように見えて、安心して見ていられるからである。「アイコンタクト」という言葉が出てきたが、まさにアイコンタクトで相手の実力を理解し切っているような表情にも見えた。本人役の橋幸夫を挟んでの傑作シーンとその後に夏ばっぱが鈴鹿にお礼を言うシーン、そしてリサイタルで鈴鹿が歌うのを聴き入る夏ばっぱの菩薩のような表情のシーンが印象に残った。ドラマの中だけでなく、実際同じ映画出身の「大女優」同士の信頼があるのだろうと思えた。片や角川映画の、片や伊丹映画の看板女優だったわけだから。

NECに続きパナソニックもスマホ撤退

 NECに続きパナソニックスマホからの撤退は、国内的不況が長引いてきたこともあるとはいえ、ドコモのiPhoneに対するこれまでの戦略の失敗のツケを払わされた格好である。「ガラケー」と一般の人にまで揶揄されるようになってしまった、かつての携帯電話時代はいったい何だったのだろうか。

ドコモの「ツートップ」「iPhone」が引導 パナソニック、個人向け..(ITmedia)
「ツートップ」打撃 NECスマホ撤退 世界戦略後手で苦境に立つ“日の丸陣営”(8.1)

 何度かここでも書いてきたが、もともと「ガラパゴス携帯」の言葉は世界標準に追い付けないことを皮肉られる言葉ではなく、むしろ日本独自の技術的発展を遂げた携帯電話のプライドを示す言葉だったはずである。海外の携帯電話が、ただ通話とSMSくらいできればいいという発想だったのに対していち早くi-modeのようにインターネット接続可能になり、カメラだおサイフだQRコードだ、やれ動画だ、さらにはワンセグだなどと、これでもかとばかり高機能が満載された世界にも類を見ないハードウェアだったのである。それは文化の違いというべきもので、回線の違いもあるとはいえ、世界には進出できない理由でもあった。


 ところがiPhoneに始まるスマートフォンへの流れが世界に起きてくると、これが鎖国を続けてきた国に黒船が来航したように外圧となり、独自に発展していた文化が衰退していく図式にも見える。江戸幕府(ドコモ)は外国との交渉を誤り、薩摩・長州(ソフトバンクKDDI)は幕府打倒のために外国から新式の武器(iPhone)をいち早く調達することになった。ドコモは幕府のように消滅はしないだろうが、トップや経営陣がお役所体質過ぎて、とてもモバイルやネットの激しい動きに付いていけるとは思えない。ついには江戸城開城(iPhone導入)をせざるをえなくなってしまったのだが、もう少し早くから国内を大事にするやり方はあっただろうにと思える。もちろん薩摩や長州もそのままで世界に通用するとも思えない。


 いずれにしても外国との交渉の失敗、国の方針を示せないツケが、会津藩のような立場の国内の端末メーカーや庶民には通信料の事実上の値上げのような形で押し付けられたわけである。昨日までの忠臣がいつのまにか賊軍扱いにされているかのようである。ちょっと強引な例えだったかもしれないが、見ていても税金だけは取られる庶民からすればイライラするばかりである。ちなみにドコモユーザである自分の現在でも使っているガラケーNEC製である。

ドコモがついにiPhone販売へ

 時すでに遅しと言いたくはなるが、これまで狼少年状態だったドコモのiPhone販売が現実になることになった。もはやスマホが当たり前になった時代に、今さらiPhoneが持てると言われてもそのメリットはピンと来ないくらいだが、ようやく歪んだ形のスマホ販売が少し矯正されることになるだろうか。

ドコモ、iPhone販売へ Appleが正式発表(ITmedia)
「ドコモの高品質ネットワークとiPhoneで素晴らしい体験を」...

 iPhoneがどうこう言う以前に、契約する通信キャリアによって使える機種が限定されるということがそもそもおかしいことである。PCで考えればプロバイダの違いによって、ネットに接続できるPCの機種が限定されるようなものである。


 それに加えてこれが本質的なことだが、通信料金が高すぎる。高速道路と同じで有料化はインフラ投資を回収できるまでというのが、半永久的に高額で有料化になっているようなものである。パケットに課金するというネットにとってはトンデモの発想が通信キャリアにとっては当たり前になっている。固定料金化されてもはやパケット量そのものの問題には見えなくなっているが、それはパケット代上限での料金設定になっている。ドコモがiPhoneを導入しようがそのへんの根本的な発想は変わらない。


 さてドコモがついにというか、とうとう販売するに至った経緯には複雑なものがあるが、簡単に言えばこれまでの戦略の失敗、スマートフォンの将来性への不明による結果といえるだろう。そこにはドコモの体質や国内最大の通信キャリアというプライドも影響していただろう。そこには既存のユーザを大事にする姿勢はあまり感じられなかった。


 ドコモがiPhoneを出す結果、今後のモバイルの情勢がどう変わっていくかは多くの見方があるだろうから、おいおいと見ていくことにして、一方で日本国内のNECパナソニックスマートフォンからの撤退を発表している。これもドコモがガラケー時代と異なり、Galaxyやらを最もプッシュしてきた結果である。


 個人的にはドコモユーザでガラケーのままで、スマホはドコモがiPhoneを出したら考えるとしてきたが、そのうちにタブレットを使う環境になったら実質的にスマホそのものをほとんど必要としない状況になってしまった。だからこそ「時すでに遅し」でもあるのである。今後はスマホタブレットの関係をどう考えていくかという中で、iPhoneおよびiPadをどうするかということになるだろう。

XPサポート終了とLinuxと

 Linux啓蒙雑誌の記事だからとはいえ、いまだにWindowsLinuxをデスクトップ環境での比較で捉えようとしているところは、時代遅れの視点と言わざるをえない。Windows XPのサポート切れを機に「Linuxが普及」と思っているのだとしたら事実誤認も甚だしい。

XPサポート終了でLinuxは普及するのか(ITpro)

 ネットの視点から見れば、WindowsLinuxの比較などとっくに決着が付いている。少なくともサーバー分野ではLinuxの圧勝である。サーバーだけでなくデスクトップ分野でも、と考えること自体が時代遅れなのである。このWeb全盛時代にあって、そもそもデスクトップ環境そのものの重要性が低くなっている。せいぜいブラウザを起動する前の画面程度の認識である。それならOSを起動した段階で初めからブラウザが起動できていれば十分というChrome OSのような発想も生まれる。


 そしてクラウドスマホタブレットの時代である。ネットサービスのバックグラウンドとしてクラウドを利用している人にとっては、クラウドのOSが何であるかを意識する必要は全くないが、そこはサーバーの世界なので、Linuxがデフォルトである。Windows Serverを動かしたがる方が特殊である。スマホタブレットの世界ではAndroidiOSかといったところで、これらは元々LinuxでありUNIX(OPENSTEP、BSD)である。むしろWindows 8が、これからこの分野に食い込めるのかどうかというところだろう。つまりクラウドスマホタブレットの世界ではPCで言うところの「デスクトップ」は意味をなさないものなのである。


 さらにWindows側からすれば、実は重要なのはWindowsのOSそのものではなくて、Windowsでしか起動できないMicrosoft Officeである。もっといえばOfficeで作成されたファイルが重要なのである。これがWebの世界やスマホタブレットの世界でどう扱われるのかが課題となっているのである。逆にMicrosoftはその特殊性をもって何とかクラウドスマホタブレットの分野でもPCの時のような独占の夢を再びと期待しているのだろうか。ネットの分野でそうならなかったように、今後はOfficeの独占分野が狩場となっていくだろう。Microsoft自身がOffice 365のようなクラウドサービスを開始した以上、これはパッケージソフトウェアとしてのOfficeの終焉を意味し、かつPCのデスクトップも意味がなくなることになるだろう。なぜならデスクトップはOfficeに代表されるWindowsアプリケーションを起動するための環境だったわけだからである。


 さてWindows XPサポート終了などといったときに取り沙汰されるのは、むしろそのPCの延命のことである。自分にもXPが入っているかつての「ネットブック」があるのだが、特にHDDのXPは消去せず、現在はUSB起動のLinuxマシンとして動いている。Ubuntuのデスクトップ版が入っているのだが(サーバー版よりインストールや扱いが楽)、デスクトップとしてはほとんど使わずに(せいぜいコンソールとして「端末」を起動するくらい)、ApacheやらMySQLやらPHPやらを入れてサーバーとして利用できてしまっている。初めはUSBメモリから起動していたが、4GBや8GBではバージョンアップしているうちに容量が足らなくなったので、現在はUSB接続の古いコンパクトHDD(120GB)から起動できるようになっている。さらにはWi-Fi接続からでもサーバーとして機能できてリモートアクセスが利くのだから、Windowsに縛られているときに比べてはるかに快適になっているといってよい。確かにUbuntuなどはデスクトップにOfficeの代替となるLibreOfficeも入っていたりはするのだが、全くデスクトップは重要ではないのである。