脱「ゆとり」教育とは何か

 旧文部省があれほど推進していた「ゆとり教育」が基礎学力の低下とかで、すっかり諸悪の根源のようにされ、今度はその反動のように教育内容を増やそうとしている。いつの時代も教育にきちんとしたポリシーが感じられない。今度は何を変えようとしているのだろうか。

脱“ゆとり”で基礎基本重視 新学習指導要領案公表(MSN産経ニュース)
理数系、最大3割授業増・小中学校指導要領案(NIKKEI NET)

 ゆとり教育は良く解釈すれば、それ以前の過熱する受験戦争に対する反省から、低学年の教育にもっとゆとりを持たせ、今後生きていくための総合的な能力を涵養する(難しい言葉だ)ことが目的だったのではないか。もちろん当時から、そんな綺麗事を言っても現実問題として受験勉強には対応できないということで、相変わらず塾や予備校に通うことは減ったわけではなかった。


 そしてここにきて少子化、基礎学力低下、理数系離れなどが言われるようになって、ゆとり教育がそのすべての原因であるかのような扱いである。しかし問題はゆとり教育の内容そのものではなく、一貫したポリシーのなさであろう。円周率が3から3.14だとか、台形の面積の公式を復活させるだとか、そんな小手先のことが問題であるとは思えない

 たとえば数10年前までは導入されていなかったコンピュータやネットの扱いはどう考えるのか。英語の扱いなども同様であろう。何を教えて何を教えないかなどは、あまり本質的な問題ではないだろう。断片的な知識ばかりでなく、1つのことをじっくり考える力をつけることが重要なのではないか。


 算数や数学を例にすれば、高校まではクイズかパズルみたいに条件反射的に答えを出す訓練ばかりやっている。反射神経に優れた者だけが良いとされるが、そのために多くの人間は数学から脱落していく。受験のためにはそれでよいかもしれないが、社会に出てからは何の役にも立たない。英語で言えば、単語ばかり断片的に暗記しても実際の会話や作文には応用できないようなものである。


 知識の詰め込みではなく応用力が重要みたいなことが言われるが、応用ができるためにはもともとタフに物を考える訓練が必要であるということだ。多くの人はそれを社会人になってから気が付く。そして「学生時代にもっと勉強しておけばよかった」ということになる。社会に出てからそのままで通用する知識などはない。直接役に立つのはスポーツなどで鍛えた体力くらいなものだ。必要とされるのは、自分にとっては未知の問題に出くわしたときに、それについてタフに考え、解決策を見出す能力であろう。あるときは計算力だったり、文章力だったり、コミュニケーション能力だったり、コンピュータを利用する能力だったり、あるいはそれらの組み合わせが必要になる。「これはやったことがないからできません」では通用しない。だいだい誰でもすぐにできるようなことであれば仕事にはならない。


 タフに物を考えられる人はタフに頭に新たな入力ができるし、タフに文章を書くことも議論することもできる。ゆとり教育というのは軽い勉強という意味ではなくて、本当はあまり時間を気にせずに、じっくりと深くあるテーマについて勉強するという意味であるべきだったはずである。週に授業を1時間増やした減らしたとかという程度の意味ではないだろう。理系文系の区分けについても、もはやそういう時代ではないと思えるが、その話はまたの機会にしよう。