羽生、名人挑戦者に名乗り

 昨夜は珍しくNHK BSを見る機会があり、将棋A級順位戦最終局の中継に見入っていた。世の中ではろくな事件、事故のニュースしかないところに、ひととき異次元の世界を覗いたような気持ちになった。
 結果は、今年はあまり波乱はなかったようで、出てくるべき人である羽生王将が名人挑戦権を獲得した。やはりこの人が出てこないと、本当の意味での名人戦が盛り上がらないだろう。

名人戦順位戦A級 羽生挑戦権“宿命の対決”再び 森内とは2勝2敗(毎日.jp)

 いくらいろいろな名前のタイトルが作られようと、名人だけは別格であるとプロ棋士も世間一般の人も見ているに違いない。やはりそれは江戸時代から続く歴史の長さである。日本人は先人をあまり尊敬しないようなところもあるが、歴史の長いものに対する意識は特別のようである。天皇制がその象徴のようなものだろう。脈々と受け継がれてきたものには畏怖の念を抱く。俄か知識の人間がそれに対してつまらない批評をしたところで、そんなものは後世に残らないという暗黙の了解のようなところがある。
 将棋名人(あるいは囲碁本因坊なども同様)もそうで、現代の将棋の世界は昔とはだいぶ変わったとはいえ、その伝統は現世の一部の人間だけでどうにでもできるものではないと思われているフシがある。それだけにその時代を象徴する「名人」は、やはりカリスマ的な存在であってほしいという期待もある。


 戦前から戦後にかけては木村十四世名人が、戦後から長きにわたっては大山十五世名人がそうした存在だったのだろう。その後、中原、谷川と、徐々に名人の地位が絶対的なものでなくなってくる。そして現在はタイトル戦線は激動期にある。誰もが最強だと信じている羽生が名人にもそれと同格という建前の竜王にもなれず、かろうじて王将と王座という賞金額も少ないタイトルに甘んじている。いや王将などは、本来名人に次ぐ権威と歴史があったはずなのだが、主催する新聞社の都合で縮小されたようなもので、やや残念ではある。


 その名人戦の主催をめぐっては、昔から毎日新聞朝日新聞の争いもあり、2007年度現在からは2つの新聞社で共催するという、かつてない変則的な形になっている。これも将棋界の赤字体質と、新聞という紙メディアの販売数の減少が複雑にからんでいることのようで、ややこしい。簡単にいえば、新聞社がスポンサーなのだから、スポンサーが打ち切りを決めれば名人戦は廃止になるかということである。普通のイベントや番組といったものなら、すぐに消滅するだけだろう。しかし名人戦のようなものは、今のスポンサーが撤退したとしても、儲かるかどうかはともかくとして、必ずやどこかが継承していくことになるだろう。それが歴史の重みということである。たとえいくらコンピュータが進歩しても、将棋というゲームそのものが消滅しないことと同様であろう。


 問題はそれを受け継いでいくプレイヤーの存在である。歴史的な名人を継ぐような人は、やはり10年か20年に一人くらいしか出現しないような気がする。ある技術レベル以上のプロは昔よりも層が厚くなっただろう。しかし真のトップは、さらにそれよりステージが高い何かが必要である。ただ強いというだけでなく、ここ一番に神がかり的な強さを発揮するのである。またそれが見る者に勝敗以上の感銘を与える。もう10年以上前になった羽生の7冠制覇などは正にそうしたものだった。


 その羽生がなかなか名人に居られない。もちろん先に永世名人の資格を得た森内も強いし、他の棋士のレベルも拮抗している。しかし今の状態になったのも、みなが羽生を目標として、全体的にレベルが上がった結果という気がしてならない。歴史的には現在という時代は、やはり羽生が中心に回ってきたというべきだろう。その歴史を刻むためにも、羽生には早く永世名人の資格を得てもらいたい。
 ちなみに、もし今年羽生が名人を獲得して通算5期で永世名人資格者となれば、昨年の森内に続き、2年連続で永世名人が誕生することになる。これも前代見聞の話だ。とにかく羽生には、まだまだ前人未到の記録を作っていってもらいたいものだ。