ノア・三沢社長が試合中に昏倒・死去

 朝からショッキングなニュースだった。たまたま某所の食堂で8時過ぎに朝食だったのだが、そこで徳光キャスターの「ザ・サンデー」の冒頭で報じていた。一瞬、なぜ朝からプロレスの映像を流しているのだろうと思ったのだが、まさかあの三沢光晴が亡くなったとは絶句するしかなかった。昨晩はテレビで前から楽しみにしていた「ターミネーター2」を見ていたが、その頃、三沢社長は亡くなっていたことになる。ターミネーターではないが、レスラーは不死身のように何度も立ち上がってくるのが魅力でもある。しかし、もう三沢社長が立ち上がってくることはなかったようだ。

三沢が死んだ…ノア試合中バックドロップで頭から落下、リングで昏倒(スポーツ報知)
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 日曜日のスポーツ朝刊紙一面も「三沢、死す」一色だった。バックドロップで頭を打ち亡くなったとされているが、素人目には危険と隣り合わせだからそう映るだろうが、それだけでもないだろう。やはり長年のダメージの蓄積とか、心労その他が重なり、突然死のような状態だったのかもしれない。レスラーすべてがそう言えるだろうが、もともと満身創痍だった。決して大型レスラーとはいえないタイプでありながら、どちらかといえば受身のレスラーだった。そこからくるダメージと、近年は社長業での精神的なストレスが大きかったことは想像に難くない。この3月には日本テレビのプロレス中継が地上波から撤退することなどもあり、経営面でも大変だったのだろうと推察される。


 三沢社長の場合、決して社長になりたくてなったとは思えない。ジャイアント馬場が亡くなり、ジャンボ鶴田が病気のため一線から退き、大学教員に転身していたこともあり、急遽社長に抜擢された。鶴田は馬場死去のわずか1年後に亡くなっている。その後、馬場夫人との確執もあり、新団体ノアを立ち上げると、ほとんどの選手は三沢社長に追随した。この世界ではレスラーとしての人気と実力を持ち合わせるのもさることながら、所属選手を食わせていくことができるのが一流レスラーである。たとえ超ワンマンだろうが、力道山に始まり、馬場、猪木ともにその力があったからこそ、社長レスラーとしてやってこれたわけである。馬場、鶴田亡き後は、三沢社長がその役を引き受けざるを得ない立場になったと思われる。本来なら鶴田が馬場の後継者になっていたはずだからである。しかし歴史はそうはならなかった。結果的に馬場、鶴田の早逝が三沢社長の寿命も縮めてしまったような気がしてならない。


 一方でプロレス団体は、零細企業か個人商店経営のようなものであり、興行人気にすぐに影響される不安定な経営状況でもある。その結果、人気のある社長レスラーは、年齢がきても、いつまでも試合に出場し続けなければならないことになる。晩年の馬場や現在のハッスルのように、お笑いやエンターテイメントのように割り切って顔見せ出場をするのも1つの方法ではあっただろう。しかし三沢社長の場合は最後まで「過激に受ける」試合を続けてきたようにも思える。


 自分は猪木派のファンだったこともあり、馬場派のプロレスはあまり熱心に見た方ではなかったが、その動向はよく知っていた。初代タイガーマスク(佐山聡)の後に、団体が違うのに2代目タイガーマスクとして三沢社長がデビューしたこと、体格差がありながら鶴田に世代交代の戦いを仕掛けていったこと、故・橋本真也の団体の旗揚げ戦で橋本、小川を余裕で受け流していたこと、などなどである。


 それにしても、かつての全日本プロレスでは、馬場が1999年に61歳で、鶴田が翌2000年に49歳で亡くなったが、それからわずか10年後に三沢社長が彼らよりも若い46歳で亡くなるとは思いもよらなかった。これもプロレスの衰退を象徴する出来事となるのだろうか。三沢社長の入場テーマ曲の「スパルタンXは好きだったが、今後は曲を聴くと何か悲しくなりそうである。ご冥福を祈りたい。



三沢が小川を翻弄(橋本も登場)