石原裕次郎とその時代

 マイケル・ジャクソン死去の衝撃が覚めやらないところだが、国内では昭和の大スターだった石原裕次郎の23回忌法要が、なんと国立競技場で営まれた。23回忌でそれほど大げさな法要とは聞いたことがないが、死去からすでに22年、関係者やかつてのファンが元気なうちにということでもあるのだろう。

裕次郎さん二十三回忌法要に11万人超(SANSPO.COM)

 世代的に特に石原裕次郎に思い入れがあるわけではないが、もう今やおじいさんやおばあさんの青春時代の今や死語の「銀幕の大スター」だったといえようか。それ以後の世代では、テレビの太陽にほえろ!」のカッコいいボスのイメージだろう。日本が高度経済成長期にさしかかろうとする時代の象徴的存在だったかもしれない。


 俳優としての存在感は語るまでもないが、この時代とは振り返ってみればどういう位置づけだったのだろうかと考える。ちょうど映画というメディアが全盛時代であった。というより、大衆のメディアとはラジオと映画くらいしかなく、テレビはまだ出現してきたばかりでそれほどの普及はしていなかった。そんな時代に大きなスクリーンの中で、当時としては自由闊達な振る舞いの生き様に見える映画の中の石原裕次郎は、人々にははるか彼方の憧れの存在として映ったのだろう。映画館という独特の雰囲気の中では、よけいにその非日常性が際立つ。思うに、コンピュータに例えれば、映画はガラス張りルームの中のメインフレームのようなものだろう。実際、石原裕次郎の映画には当時としても莫大な制作費がかかったという。


 ところがテレビというメディアが普及してくると、ガタイの大きい映画は次第に衰退してくる。かつての大物映画俳優の出演映画も次第に少なくなっていった。石原裕次郎も例外ではなく、とうとうテレビ進出をはかることになる。それが昭和40年代(1970年代)半ば頃から始まった「太陽にほえろ!」だった。テレビはいわばメインフレームに対しての一家で1台のPCのような存在だったといえるだろう。かくして石原裕次郎は映画からテレビに転身に成功した俳優の1人となった。やはりこの時代の映画出身の人は、三船敏郎もそうであるように存在感が違うようである。初めからテレビの俳優は、近所の兄さんかおじさんと同様で、どこかスケールが小さく見えるものかもしれない。


 そういう時代を経て、今では俳優も歌手も小粒な人ばかりになったような気がする。それだけが原因ではないだろうが、いくらテレビの画質や演出・効果が高度になっても、思い入れを感じられなくなっているのかもしれない。「銀幕の大スター」という言葉はあっても「液晶画面の大スター」という言葉はありえそうもない。


 そして映画にとって代わったテレビも、いまやネットとPCにリプレースされつつある。そうした環境の中では、ますますどんなスターが出現可能なのか見当がつかない。案外、映画時代の貴重な映像がネット上に動画として現れて、映画時代を知らない世代にも、意外に斬新な驚きと感動を与えたりしたならば面白いものだとも思えるのだが。