猪木がWWE殿堂入り

 久しぶりにプロレスの昔話ができるような話題である。猪木が米国プロレス団体のWWEの殿堂入りが決まったとのことである。そもそもWWE殿堂などというものがあったこそすら知らなかったわけだが、Wikipediaにも一応その由来とこれまでの殿堂入りの人物が載っている。ざっと見ただけでも、かつて猪木と名勝負を繰り広げたレスラーが数多く名前を連ねている。それだけでも猪木はもっと早く殿堂入りしてもいいくらいだった。何やら必ずしもWWEとの関係ばかりでなく、広くプロレスや格闘技に貢献した人が対象で、猪木もその1人みたいな論調もあるが、とんでもない。猪木とWWEとは深い繋がりがあるのである。

アントニオ猪木 2010年WWE殿堂入り決まる(Sponichi Anex)
50周年に花!猪木がWWE殿堂入り(nikkansports.com)
2010年WWE殿堂、アントニオ猪木氏が決定(WWE Japan)
アントニオ猪木、WWE殿堂入り決定(IGF NEWS)
WWE殿堂(Wikipedia)

 そもそも米国でメジャーなプロレス団体といえば、現在ではWWEだけになってしまったが、遡ればWWF(自然保護団体の名前が被るということでケチが付いた)、もっと前にはWWWF(スリーダブリューエフ)といっていた、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン(MSG)を本拠地とする団体だった。殿堂ということでメジャーリーグにたとえればヤンキースみたいなもので、プロレスの都会団体といえるだろう。かつてのプロレス全盛期にはプロレス団体(というよりプロモーター団体)といえばNWAとAWAがしのぎを削っていた。さしづめナ・リーグア・リーグがあったのである。WWWFはNWAに所属はしていたのだが、ニューヨークでは独自路線を歩んで隆盛を誇っていたといえる。


 さて猪木とWWWFとの関係である。日本では猪木の新日本プロレスと馬場の全日本プロレスが対立状況にあったが、外国人レスラー招聘ルートとしてのNWAとの関係は馬場に押さえられ、猪木は有名外国人レスラーを招聘することができずに興行的にも苦しい立場にあった。そこで交渉したのがWWWFであった。WWWFはNWAに所属するものの、NWA本部には反感を持っており、ニューヨークは独自に興行で隆盛を誇っていたからである。その頃のオーナーが現在のビンス・マクマホンの父・ビンス・マクマホン・シニアだった。ちょうどヤンキースオーナーのワンマンのジョージ・スタインブレナーのようなものだった。全日本プロレスと対立する新日本プロレスと、NWA本部に反感を持つWWWFの利害が一致したといえたのだろう。ここに新日本プロレスとWWWFとの提携関係が結ばれ、WWWF所属のレスラーを招聘できるルートが拓かれたのである。それを記念してか、全盛期の新日本プロレスの興行には、マディソンスクエアガーデン(MSG)シリーズというものがあった。


 そのWWWFとのルートで、日本のプロレスの歴史にも残ったレスラーが、アンドレ・ザ・ジャイアントスタン・ハンセンハルク・ホーガン、ボブ・バックランドといったところである。そもそもWWE殿堂は、アンドレ・ザ・ジャイアントが亡くなったのをきっかけに設立されたものであるそうである。


 全盛期のアンドレと猪木との名勝負はほとんどが引き分けだったが「今、アンドレが世界最強を名乗るなら否定はしない」と当時の猪木は言っていた。有名なシーンは、猪木がアンドレの腕を殺しにキーロックをかけたら、腕1本で猪木を肩の上まで持ち上げて、そのままロープの外まで運ぶというものだった。アンドレの肩の上の猪木がまるで子供のように見えるほどだった。


 スタン・ハンセン新日本プロレス登場時は、馬力だけは凄まじい若手レスラーだったが、試合運びという点ではまだまだのレスラーだった。それが猪木との対戦を続けていくことによって、一流レスラーへとのし上がっていった。そしてアンドレとハンセンは、今は無くなっている「幻の田園コロシアム」で激突している。これぞプロレス!というアンドレ、ハンセンともに全盛期の、リングが軋むようなまさに問答無用のド迫力の試合だった。そのハンセンが、猪木の殿堂入りのプレゼンターを務めるのだという。


 そしてハルク・ホーガンである。やはり初来日時は無名のロックシンガー崩れのデクの棒と見られていた。しかし猪木とタッグを組み、プロレスのイロハから学んだようなものである。また、タイツに「一番」と入れるなど日本で人気が出るようになった。IWGPで猪木を失神に追い込むほどのライバルにものし上がった。そうしているうちに、逆にWWFからのオファーが来ることになる。WWFと契約すると新日本プロレスには出場できなくなるので、ホーガンは悩んで猪木に相談したそうである。その時、猪木はホーガンにチャンスではないかと、快くWWFに送り出したのだという。その後、ホーガンは長い間WWFを代表するトップスターになった。


 他にもバックランドとの戦いとかあるが、多くは忘れてしまった。昔、日本人レスラーがMSGに登場することは名誉なことだったと思う。記憶に残るところでは、藤波のWWFのタイトル奪取、タイガーマスクの登場、キラーカーンのアンドレの足を折った事件がある。ともあれ、猪木は選手としても、新日本プロレスのプロモーターとしても旧WWFとは深い関わりがあり、その歴史が新日本プロレスの全盛期の歴史といってもいいくらいである。その意味では、猪木のWWE殿堂入りは当然過ぎるといってもよい。もっとも、どれほど権威のあるものかは別として。