鬼軍曹・山本小鉄氏が死去

 近年のプロレスの話題は訃報ばかりである。長い間、新日本プロレスのコーチ、解説者として活躍してきた山本小鉄氏が亡くなった。新日本プロレスの黄金時代に絶対的な表看板が猪木だったのに対して、選手育成や運営面など裏側で支え続けてきたのが山本小鉄氏だった。プロレス実況で古舘伊知郎と解説のコンビを組んでいたのも、その黄金時代である。

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 最近でこそ、格闘技にしろプロレスにしろ、イベント興行の色あいが強くなり、選手はそれぞれの小さなジムで練習しているようでスケールが小さくなった。


 猪木が新日本プロレスを旗揚げするために、まずやったことは「道場」を作ることだった。旧日本プロレスを追放された猪木に付いてきた選手は、山本小鉄木戸修藤波辰巳のわずか3選手だった。猪木は自宅を改装して道場を作った。これが現在の新日本プロレス道場の場所になっている。小鉄氏はここで長年にわたって名選手を育成してきた。そのトレーニングは厳しく、道場の合宿所に住み込んでトレーニングする多くの選手の若手時代に小鉄氏は「鬼軍曹」として恐れられた前田日明などは、朝に道場の表に小鉄氏の車が停まる音がしただけで震えがきたと回想している。プロレスの興行と選手育成は一体だった時代である。道場なくしてプロレスは成り立たなかったのである。


 プロレスのトレーニングが厳しいのは、常人をはるかに超える体力や肉体を必要とするから当然ではあるが、これには2つのルーツがあると思われる。1つは日本のプロレスの始祖が力道山だったことである。猪木は力道山の付け人にもなり徹底的にしごかれた。今の若者なら決して耐えられないほどのものである。力道山は大相撲出身だった(二所ノ関部屋、初代若乃花は後輩)だけに、道場は相撲部屋に近い厳しいしきたりをもっていた。そして小鉄氏は39歳で亡くなった力道山の最後の弟子だったとされる。もう1つはプロレスの神様カール・ゴッチの影響である。ゴッチもトレーニングに関しては妥協を許さぬ凄まじい人だった。日本人でゴッチの弟子の第1号となったのが猪木である。その後も多くの新日本プロレスの選手がゴッチに師事している。ゴッチイズムが「ストロングスタイル」の原点であった。


 現役時代の小鉄氏の代名詞は、なんといっても星野勘太郎とタッグを組んで、アメリカを転戦して暴れまわった「ヤマハブラザーズ」である。小型でもパワフルでスピードもあるタッグということで、当時アメリカでも人気のあったヤマハのオートバイにたとえて、山本のYAMAと星野のHからヤマハブラザーズと呼ばれたという。


 テレビではしばしばコミカルなレフェリー役などで登場することもあり、概して生真面目な人のよいオジサンというイメージだったが、プロレスファンはその鬼軍曹としての怖さと実力を知っていた。関係はないが、68歳といえば今話題の豪腕とされる小沢一郎氏と同年代である。合掌。



武藤と山本小鉄



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