上田馬之助逝く

 プロレスの話題を書くときは大概訃報ばかりになってしまった。本来なら時期的に年末に行われることになった「石井vsヒョードル」の予想などでもすればよいのだろうが。プロレスラー「上田馬之助」といっても知っている世代はどのあたりからだろうか。力道山時代からのプロレスラーは、これで猪木くらいしか居なくなったのではないだろうか。

猪木とクギ板マッチ…上田馬之助さん死去(nikkansports.com)

 小鹿、大熊、林牛之助、上田馬之助高崎山猿吉などの動物シリーズのリンクネームを付けられたレスラーの1人だった。ジャイアント馬場は本名だが、マンモス鈴木という選手もいた。もっとも上田馬之助という名前の江戸から明治にかけての剣豪と、新撰組の隊員もいたらしいが、その由来との関係はわからない。


 さて上田馬之助といえば、やはり馬場、猪木との関係だろう。日本プロレス時代から馬場、猪木が二大エースだったのに対し、馬之助は典型的な中堅レスラーだった。猪木は馬場とともに主力レスラー達と、当時の日本プロレスの幹部らの汚職から改革を行おうとするが事前にそれが漏れ、猪木は「会社乗っ取りを企てた」とされて追放されることになる。真相は定かではないが、このとき幹部に密告したのが上田馬之助だったのではないかとされている。その後猪木は新日本プロレスを設立し、馬場も結局は半年後脱退して全日本プロレスを設立して、猪木・馬場の2団体対立時代が始まる。両エースを失った日本プロレスはあえなく崩壊した。その残党の1人が馬之助だった。


 結局その後は一匹狼的に悪役レスラーに転じ、存在感を得ることになる。もし中堅レスラーの立場のままだったら、あまり記憶に残るレスラーになることもなかったかもしれない。馬場・猪木に対等に対峙するには、悪役レスラーとしてのし上がるしかない、という発想だったのだろう。特にタイガー・ジェット・シンとの凶悪コンビは有名になった。金髪に竹刀を振り回すというスタイルはともかく、馬之助といえば打たれ強いタフなレスラーというイメージが強い。容易には参らないだけに、悪役としての存在感も強かったと思える。その馬之助と猪木が遺恨試合のような「釘板デスマッチ」などをやっている。リング下に五寸釘を逆さに打ちつけた板を敷き詰め、どちらかがリング下に落とすかエスケープしようとすれば針のむしろが待ち受けるという恐怖のデスマッチであった。実際に落ちることはなかったが、プロレスラーの凄みを見せつけた試合であった。


 また、かつてシュートのプロレスを標榜した前田日明率いるUWFに「何がシュートだ」と真っ向から立ち向かったのも馬之助だった。ここでは猪木側に回っている。前田のキックを真正面から受け止めてみせたのも打たれ強い馬之助ならではの迫力だった。


 不幸にして交通事故で首から下が不随になるという身になったが、それから15年近くも生き延びたことになる。これも馬之助ならではの強さによるものだったといえるだろう。ある意味、ようやく楽になれたのかもしれない。また一人プロレスが隆盛を誇っていた時代のレスラーがいなくなった。