ストールマン氏、著作権を語る

 リチャード・ストールマン氏といえば、Emacsの開発者というだけでなく、フリーソフトウェア運動でGNUを設立した偉大な人物としての印象が強い。プロプライエタリのソフトウェアで財を築いた同世代のビル・ゲイツスティーブ・ジョブズとは、対極に位置するような人である。ただ現在は世代的には、特にオープンソースソフトウェアの世界では「口うるさいオヤジ」のように思われているかもしれない。そのストールマン氏が最近の電子書籍なども含めた著作権について講演している。

ストールマン、著作権のあるべき姿を提案--「Facebookに私の写真を..」とも(ZDNet Japan)
ストールマン、現代の電子書籍に抗議 企業が規定した読書体験しか得られない
ストールマン、オープンソースの流行に複雑な心境 Linuxには一定の評価

 ストールマン氏はソフトウェアに初めて「思想」や「文化」という概念を持ち込んだ人であろう。それまではソフトウェアはあくまで企業の開発した商品であり、企業の利益を追求するためにしかコントロールできないものだった。ソフトウェアが特許や著作権でガチガチに固められてしまえば、文化の自由は発展しなくなる。それならばフリーで使えるソフトウェアを自ら開発してしまった方がよい。こうして生まれたのがGNUだった。特にOS部分は「GNU Hurd」というプロジェクトだった。これの完成が長引いているうちにLinuxが勃興し、インターネットとともにある意味「GNU Hurd」の目指していたものを達成してしまった。ストールマン氏はここを評価する。


 ただ現在の「オープンソースソフトウェア」とストールマン氏が理想としていた「フリーソフトウェア」とはやや異なる。解釈は難しいから避けるが、前者はオープンにすることによってサポートする企業などにとっても実利が得られるからであり、後者はあくまでユーザの立場で「文化の共有」を理想としているからである。ストールマン氏の提唱は理想論に過ぎないと決めつけるのはやさしい。だがソフトウェアというものの考え方に、大きな影響を与え続けてきたことには間違いないだろう。


 同様に、このことはデジタル化された時代の著作物や音楽、芸術作品についてもいえる。著作権権利団体は、従来通り大きくその権利を主張し対価を求めようとする。しかしネットで流通が容易になった時代に、従来の著作権のあり方がもはや時代遅れになっていることは、誰しもが薄々感じて不満を持っていることも事実である。ただ立場上、それを大きな声では主張できないでいるに過ぎない。そこにストールマンのような声の大きな人の主張である。講演会場からは、しばしば大きな喝采も起きたというが、これは単にストールマン氏の個人的人気によるものばかりでもなかっただろう。


 ストールマン氏の主張は民主化運動にも似たところがある。何十年と続いた体制に物を申すで、これを覆すのは容易なことではないが、こういうカリスマ的指導者が一貫して主張を続けていき共鳴者が増えていくことで、いつの日か体制が変わる日も来るだろう。