名レスラー・ビル・ロビンソン氏死去

 あのビル・ロビンソンが亡くなった。75歳という享年はルー・テーズカール・ゴッチが80歳過ぎまで生きていたことを考えても早い。今月末には来日予定もあったというから本当に突然の死だったのかもしれない。

「人間風車」ビル・ロビンソンさん死去 猪木氏悼む(スポーツ報知)

 ビル・ロビンソンといえば、何といってもたった一度の猪木との名勝負である。猪木が新日本プロレスを旗揚げして数年、坂口征二や日本人対決を行ったストロング小林なども加入して日本人選手の陣容が整ってきたが、対戦相手の外国人選手には恵まれずにいた。そんな時に実現した初めての大物選手との名勝負だったといえる。当時とは「夢の対決」といわれた。


 自分は昔から猪木の一番の名勝負を語るときは必ずロビンソン戦を挙げていた。内容がこれぞプロのレスリングというものだったからである。60分3本勝負の60分フルマッチの息詰まる攻防だった。勝敗はロビンソンが猪木のNWFタイトルに挑戦という形だったので、両者引き分けの話になっていただろうが、とにかく始まってみれば勝敗などどうでもよいと感じられるようになるのである。猪木32歳、ロビンソン36歳の両者最も油の乗り切った年代だった。


 かつてロビンソンがインタビューでワークとシュートのことを聞かれたときに、笑いながら「確かにプロレスにはワークとシュートがあるだろう。しかし本当に超一流の選手が戦えばそんなことは超越するものだよ」と。自分にはそれが猪木vsロビンソンだったと思っている。猪木ファンの自分でさえ、この試合ではロビンソンの方がレスリングの質で上回っているように見えた。


 しかし猪木戦はたった一度きりの夢で終わる。名勝負数え歌ではないが、もし猪木vsロビンソンがライバル対決としてもっと長く続いたとすれば、プロレスの歴史も変わっていったのではないかと思える。猪木と手の合うレスリング技術を持ったライバルといえば、他には猪木が若手時代に戦ったドリー・ファンク・ジュニアくらいしかいない。レスリングのライバルを見いだせないことで猪木はその後アリ戦に代表される異種格闘技戦へとのめり込んでいくことになるからである。


 さてロビンソンの必殺技といえば「人間風車」の異名とされるダブルアーム・スープレックスとされるがそれはちょっと違う。ロビンソン自身も語っているが真の必殺技はワンハンド・バックブリーカーである。ダブルアーム・スープレックスは見せ技に過ぎない。これは当時の国際プロレスの吉原社長からロビンソンが初来日する際に見栄えのするフィニッシュ技を頼まれて実現したものだという。人間風車という響きがいかにも昔の時代らしい。そのワンハンド・バックブリーカーはまさに芸術技だったと思う。確かAWAに参戦していた頃の映像を見たことがあったが、格下の相手と手四つから翻弄し、あっという間にワンハンド・バックリーカーを決めるまでまるで魔術のような動きだった。猪木にも決めているがあれよりもっとキレがあったものだった。組み合っている相手を一瞬のうちにまるで無重力のように目の高さ以上に持ち上げて、次の瞬間垂直に落下させ、自身の膝に相手を腰を打ち付ける。相手は腰を支点に弓の弧のようにたわんでダメージを受ける。


 プロレスの三大芸術技といえばルー・テーズの「バックドロップ」、カールゴッチの「ジャーマンスプレックスホールド」、そしてロビンソンの「ワンハンド・バックブリーカー」だったと思っている。それぞれ、まねをするレスラーはいるがあのスピードとキレはやはり創始者でないと醸し出せないものであろう。そしてとうとうその3人ともいなくなってしまった。


 今回ロビンソンの死をすでに猪木がいない新日本プロレスが発表したというが、猪木vsロビンソン戦の映像の版権を持っている関係からであろうか。考えてみれば最初に来日した国際プロレスはとうの昔になくなり(出身者といえばアニマル浜口くらいか)、猪木戦後移籍した全日本プロレスで猪木以上に対戦したジャイアント馬場ジャンボ鶴田も(三沢すら)もう亡くなってしまっているのである。つくづく昭和のプロレスは終焉してしまっているのだなと感じざるをえない。