バンクーバー五輪開幕と聖火

 バンクーバー五輪が開幕した。冬季五輪の開会式などあまり見ることはないのだが、日本時間で休日の昼間だったこともあり、ついつい初めから終わりまで見てしまったが、気になることもあった。

五輪開幕、日本は43番目に行進/開会式(nikkansports.com)
聖火を屋外の聖火台に点火!五輪開幕(SANSPO.COM)
聖火点火で大失態! 柱そそり立たず

 開会式そのものは史上初の屋内会場での開催だそうである。室内だと最も気になるのが聖火台の設置場所である。ところが開会式まで聖火がどう点火されるかは秘密だそうである。そもそも聖火台が会場には見当たらない。どこか仕掛けの中から登場してくるのだろうとはみていた。


 しかし開会式が進んでいっても、一向に聖火が登場する気配がない。開会式といえば、日本の感覚でいえばあくまでセレモニー、伝統を継承する上でも儀礼的な内容が主だと考えがちである。ところが、いつしか五輪の開会式は演出過剰の大イベントに変貌してしまったようである。北京五輪のときも、これでもかとばかり中国の歴史を見せつけようとする壮大な「絵巻図」と化していた。今回も神話の時代に始まるカナダの歴史を表現していたようである。五輪そのものが国威発揚の場といえばメダル授与式などでの国旗掲揚などそうなのだろうが、開会式全体もその格好の場になったようである。


 ただそうしたイベントが中央に来て、各国選手団が入場したと思ったらそのまま選手は中央ではなく、観客席の方へと座らされていた。選手もイベントを鑑賞する観客となっていた。演出の凝ったイベントの内容は素晴らしいことには違いないだろうが、ここに違和感を覚えた。イベントが終わるまで選手を立たせたまま待たせるよりはましだろうが、あくまで主役は各国を代表する選手のはずではないのか。選手はオペラかショーを観劇に来ているわけではないだろう。


 そして聖火である。五輪の精神からすれば、セレモニーとして最も重要なものは聖火のはずである。それは五輪という伝統を引き継いできた象徴のものだからである。だからこそ聖火リレーなどという、よく考えればわざわざ各地で行うことが無駄であると思えるようなことを、五輪が開催される日まで延々とやってきているのである。だから開会式では宗教ではないが、聖火こそ最も重視して奉られるべきものであろう。それが開会式のメインイベント中は、どこにあるかも知らされずに、特には必要がないもののごとく登場させずに、やっと最後の最後に登場させるというのは、本当に五輪の精神なのだろうかと思ってしまったのである。五輪の火は、ただ会場を明るくするだけの花火とは違うはずである。歴史的に多くの人の血と涙の汗と思いが、その火には込められているはずである。リアルタイムではわからなかったが、聖火を最後まで登場させなかったバチが当たったか、聖火台は目論見通りには機能しなかったようである。、