加藤九段1000敗の大記録

 将棋の加藤一二三・九段が史上最多の公式戦1000敗目となり、話題となっている。どんなジャンルでも、勝って騒がれることはあるが、負けることが話題になるのは珍しい。最近でいえば地方競馬ハルウララくらいではないか。

将棋・加藤九段、史上初1000敗「恥ずかしくはない」
(8/22)史上初、負けも負けたり1000敗・加藤九段

 プロのスポーツや個人競技において、この記録は珍しい。スポーツは年齢による体力的な限界もあり、現役時代の試合数も限られるから、こんな記録は出ない。年齢的にいえば60歳を越えても現役でいられるのはゴルフだが、単純な勝ち負けではない。
 将棋は頭脳競技だからとはいえ、近年は本当の一線級でいられるのは30代くらいまでになっており、選手寿命としては野球選手に近いかもしれない。40代以降は中堅選手として競技を続けられるだけだ。


 さて加藤九段といえば、戦後将棋のタイトル戦の実力制が本格化してから最初に彗星のごとく出現した天才であり、当時は「神武以来の天才」と言われたらしい。14歳中学生でプロ四段、以後毎年昇段を重ね、弱冠18歳A級八段の記録は、現在とは棋士の層の厚さが違うとはいえ、いまだに破られてはいない。そして20歳で名人挑戦者となり、誰もが次代の名人は加藤であると疑わなかったことだろう。


 ところが挑戦する相手は、史上最強ともいえる全盛期の頃の大山康晴十五世名人であった。第1局こそ勢いで勝利したが、以後4連敗で挑戦は失敗。その後も挑戦するうちに大山から名人を奪えるだろうという予想ははずれ、なんと通算で18年間も大山の時代は続く。加藤や同世代の挑戦者はことごとく大山にはね返されたのである。裏を返せば後輩を徹底的にはね返したことで、大山が史上最強の名をほしいままにしたことにもなった。


 もし時代が違って、大山のような怪物がいない時代だったら、加藤が早くに天下を取って、一時代を築いていたかもしれない。結局大山時代の終焉は、50歳近くになってさすがに衰えを見えてきた頃に、後輩の中原誠(十六世名人)によってもたらされることになる。この頃は加藤も30代半ば頃でピークを越えかけていた頃である。加藤は中原には相性が悪く、名人戦でストレート負けなどしたりもした。それでも徐々に克服して、ついに中原を倒し名人位を手に入れる。なんとこのときの名人戦は7番勝負のところを、千日手持将棋(引き分け)をはさみ、事実上10番将棋だったと言われる。加藤の持将棋1の記録はこのときのものである。さすがの中原も根負けして、名人の座から滑り落ちたというところだろう。しかし、このときすでに加藤は40歳を越えていた


 やっと加藤の時代が来たかと思いきや、翌年、加藤以来の中学生でプロになった谷川浩司(十七世名人)が挑戦者となり加藤は破れ、なんと史上最年少21歳の名人を許してしまう。事実上、ここで加藤の時代は終わった。時代の合間に1年だけ名人になったのは明智光秀を思わせる。以後はタイトル戦に登場することもなく、トップ、中堅棋士として25年近く続くことになる。トップとしての息は長く、中原がA級を落ちても加藤はまだ留まり続けた。中原よりも衰えるのは遅かったといえるだろう。


 通算1261勝は大山、中原に次ぐ歴代3位の記録であり、単に勝敗よりも内訳としては、歴代のトップ棋士相手との戦いばかりの記録である。週1局くらいとすれば、年間約50局、50年近くかけて達成した記録である。対局数では大山を抜きトップだそうである。リーグ戦にしろトーナメントにしろ、そもそもプロは勝ち進まないと、対局が付かないのだがら、勝ちも勝ったり負けも負けたりの大記録であることには間違いはない。


 現代はコンピュータでの将棋も含め、将棋の研究が煮詰まってきているので、その環境の変化についていけない今後の棋士は、引退も早くなることだろう。人間臭い将棋人生を貫く将棋指しとしては、最後の存在となるかもしれない。