テレビの見逃し需要への対応

 コンテンツ提供側の人としては、著作権問題などでもっともYouTubeなどネット側に対しての進んだ理解を示しているのが角川会長であると思える。JASRACの横柄さに比べれば雲泥の差にも見える。その角川会長によると「放送側がテレビ番組の見逃し需要に対応できていれば、現在のようなYouTubeの成功はなかった」という。

「放送側が番組の見逃し需要に対応していればYouTubeの成功はなかった」
--角川会長が分析 (CNET Japan)

 テレビで放送時間が決まっている番組を見逃した場合に、すぐにその需要に応える手段を提供できないのは、宅配業者にたとえれば「お荷物をお届けに来ましたがご不在でしたので、もう配達はしません」と言っているようなものである。といって放送側が見逃し需要にきめ細かく対応できるかといえば、そうは簡単にはいくまい。


 テレビやラジオは不特定多数にしかサービスを提供できない単方向メディアであることと、スポンサーや放送利権が絡むからである。簡単に言えば、文化が違うからといえる。使い古された言葉である「放送と通信の融合」の困難は、技術的な問題ではなくてそこに携わる人間の文化の意識の差が大きいからといえる。
 視聴者が見ようが見まいが「番組表の提供」こそが彼らの最大のサービスなのであり、「放送してやっている」という利権なのである。そこにスポンサーからの資金提供を募ることができるからである。その番組表を無意味にするようなサービスの提供は、テレビ局側からは進んで行うことはないだろう。
 仮に地上波の見逃し番組を別チャンネルで提供するとして、それはオンデマンドの形でなければならないだろうから、テレビ局のネットで提供する方が手っ取り早いということになる。そしてそちらの方が本来の放送チャンネルよりも人気が出てしまう可能性さえある。


 日本では一部の成金的IT長者が、ネットの代表者のように思われがちだが、決してそうではあるまい。彼らの意向でネットの潮流が出来上がってきたわけではなく、彼らがネットの大きな流れを利用してきただけのことである。ところが放送業界は寡占分野なので、自分たちの業界の意向だけで何でも決まってしまう傾向にある。自分たちの決めた番組表からブームを生み出すことに意味がある。こういった文化の放送側からはユーザサイドに立った発想の文化は生まれてこないように思える。技術的に可能なことと、そうした文化が生まれることは別である。


 しかし放送側が今後ネットによる影響を受けざるをえない要因はさまざまあるだろう。その1つは衛星とデジタル化によるチャンネル増加のためのコンテンツの不足である。たいして視聴率のない番組には大きな制作費はかけられない。そこにネットを利用した双方向メディアとしての新しいコンテンツが生まれる可能性はある。ただそれが個人動画共有サイトを含んだようなものになるかは、まだ誰も予想できないことかもしれない。