クリスマスプレゼントとお年玉

 宗教のない日本人は、クリスマスと正月と、節操もなく?1週間も立たずにどちらのイベントも越してしまう。子供相手だと1週間のうちに「モノとカネ」を与えなくてはならない。ある意味、義務みたいになっている。
 良い子にしていればサンタから望みのプレゼントがもらえる、というが、実際良い子でないからプレゼントをもらえなかったというのは聞いたことがことがない。良い子かどうかで家を回るということでは、秋田のナマハゲみたいなものか。もっともこちらは姿を現す上にプレゼントを持って来はしないが。
 お年玉になるとこちらは実弾なのでもっと生々しい。つまり金額、子供の勤務評定をどうやって決めるのか。自分の子供ならまだしも親族の子供だと、よけいに相場や年齢ということを考えてしまう。まして今は少子化で、1人の子供の期待値(額)も高くなっているかもしれない。
 カネよりもプレゼントの方が夢があるかなとは思うが、モノを選んでわざわざ買いに行くのも面倒だ。子供だと必ずあるのが他人との比較。友達より極端に少なかったり多すぎたりしても居心地が悪いだろうし、下手をするとそれが今はやりのイジメのきっかけになりかねない、などと余計なことも考えたりする。お年玉はそのとき何に使ったかは全く覚えていないが、プレゼントはピンポイントで将来の記憶に残ることがある。下手をするとその人の一生を左右しかねない。


 華やかに引退した新庄だが、グラブはプロ入り以来、ずっと同じものを使い続けてきた。「こいつももう限界だと言ってますから」とグラブも置いた。手になじむからとかいろいろ理由はあるだろうが、このモノを大切にする新庄の原点は父親だろうなと思った。
 新庄の父親は造園業で、手が傷つきやすいので、生計が苦しいながらも専用の手袋を買おうとしていた。そのころ野球を始めだした新庄がスパイクがほしいと親にせがんでいた。ある日、こっそりとスパイクがプレゼントされていたという。喜んでますます野球に打ち込む新庄だったが、ある日、父親の手に多くの傷がついていることに気がついたという。父親の手袋も自分のグラブも、新庄にとっては実は同じようなものだったのではないかと。
 「イッシンジョーの都合」などとオヤジギャグも飛ばす新庄だが、これも父親そのまま。父親はインタビューされたときも、二言目には必ず何かダジャレをが飛ばさなければ気がすまないような面白いオジさんだった。一流の人の親はやはり何かが違うんだろう。