プログラミング能力にみる日本の国力の低下

 立花隆氏の評論で気になるものがあった。日本はプログラミングで国際的に勝つことができない。そのレベル低下が著しいという。議論をみるに「プログラミング」を「数学」に置き換えてもよさそうだ。

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もとを正せば、初等教育のときの基礎学力が、国策の「ゆとり教育」のために失われてきたのではないかという。ゆとり教育うんぬんは、教育分野でさんざん議論されているだろうから、コンピュータとの関連で考えてみたい。


 確かに数学が得意な人はプログラミングに興味を持ちやすいし、マスターするのも早い。どちらかといえばオタク的プログラマーになりやすい。しかし、それはわりと昔の話で、ネットが普及してきた現在では少し違ってきているようだ。現在では自己完結的プログラミングは主流ではなく、むしろすでにあるプログラミングの資産を活用し、それらを組み合わせて、かつネットを含めた発想とか構想力が必要になると思う。そこでは、あるレベル以上では数学というより、作文力の方が本質的になると思える。長編小説を書ける能力に似たようなものかもしれない。

 それはともかくとして、基礎学力が重要だということには賛成だ。コンピュータの話で言えば、初等教育の現場では、むしろ英数国の時間を減らしてパソコンを教えたりしている。にもかかわらず、その後のプログラミング能力は伸びていないことになる。それは単にコンピュータの受動的な利用しか学んでいないからであり、能動的な活用ができるようになるには、時間を減らしてしまった英数国などの学力の方が必要になるからだ。ゆとり教育の一環かどうかはわからないが、子供には学校で中途半端にパソコンやネットの利用を教えるより、脳の発達時期にはアナログ的な英数国の教育に力を入れた方がよっぽど将来のためだろう。デジタルのパソコンの利用を覚えるより、自分のアナログの脳を活用させることを身に着ける方が先だろう。

 
 いわゆる職業的プログラマの世界は、人数が多ければよいというものでもない。極端な話、あるプロジェクトを成功させるには、キーマンになるプログラミングの「天才」が1人確保できればよいと言われる。しかしその1人を輩出することは、全体の平均的基礎学力が上がって可能になることだろう。