ゲームは文化かどうかの論議

 内閣の知的財産戦略本部とやらの委員である東大教授のゲームに対する意見に、ネット上で論議を呼んでいるようだ。いわく「ゲームなんて文化じゃない」と。

知はうごく:コンテンツ力(7−3)日本の戦略
ゲームは時間を奪う。ゲームで感動は難しい。ゲームなんて文化じゃない

ざっと記事を読んだが、くだけた場でのインタビューなのか、全般に荒っぽい話ばかりで何を言いたいのかよくわからない。アニメだろうが食文化だろうがゲームだろうが、政府が指導して庶民の嗜好や時代の文化が変わるものではなかろう。国は健全な文化の交流を支援していれば十分なのではないか。「これは私が指導した」みたいに思い込んでいるのは、上からの物言いしか知らないエリートが陥りやすい視野狭窄である。

 ゲームといっても、世代によってイメージが違うだろうし、ゲーマーと言われるのはテレビゲーム世代からだろうから、その世代からの反発は強いだろう。


 自分などはゲームと聞いても、TVゲームばかりでなくいろいろなことが思いつく。「文化か」と問われれば間違いなく文化の1つであると答える。「ゲーム理論」なんていえば、フォン・ノイマン創始の学問ですらある。もっと遡れば、古代の「魔方陣」とか今の数独につながるものだし、インドの「ハノイの塔」などは現在でも困難な問題の1つだ。日本でも囲碁・将棋はじめ、コンピュータ上でも今のゲームに劣らず奥が深い。


 東大教授は、現代的な派手なTVゲームに批判的なのだろうが、ゲームといってもピンキリなことは確かだろう。以前、子供はPCを見ればすぐにゲームばかりやりたがったものだ。文字ばかりの本より、漫画ばかり読みたがるのと同じことだ。それを批判しても仕方がないが、いい加減飽きたあたりで、こういう事を言ってきかせることがある。「パソコンの中にどうしてゲームが入っているか知っているかい?」と。「それは売る方の人がお客を楽しませるためだろう」などという答えが返ってくるだろうが、それは違う。「昔、PCはハッカーと言われる優秀な人たちが寝る暇も惜しんで作ってきたものだが、その人たちが疲れた頭を休めたり、気分転換をするために必要上作ったものがPCのゲームなのさ。決してPCを知らない人たちを楽しませるために作ったものじゃない」と。
 インターネットしかりで、誰かにサービスしたいためにあったわけではなく、自分たちの必要のために開発されたものだ。それが現在のゲームにも繋がっている。

 しかしゲームからPCに興味を持ち始めた子供たちの中から、いずれ次世代のコンピュータを開発する者が出てくることも期待されるのである。

 
 自分個人の好みや印象と何に感動するかは勝手だが、それを訴える前に、どんな文化であれスポーツであれ、まず先駆者の基本精神を学ぶことは重要なことだろう。歴史や文化を知るとはそういうことだ。