伝説の鉄腕・稲尾逝く

 鉄腕と言われた稲尾和久が亡くなった。現役時代のことはもちろん知らないが、記録やエピソードを見る限り、とんでもない選手であったことは間違いない。この人がプロ野球に残したものをいろいろと想像してみることにする。

鉄腕稲尾さん特集 (nikkannsports.com)

 日本のプロ野球をメジャースポーツに押し上げたのが王、長嶋だったとすれば、年齢的にはともかく、稲尾はテレビもまだ普及していない昭和30年代前半の西鉄黄金期の、プロ野球夜明け前の時代を支えた選手といえるのだろう。しかし九州では「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた絶大な人気を誇り、今のようにプロ野球球団が札幌だ、仙台だ、千葉だ、福岡だと地域密着になりつつあることの先駆けになっていたようにも思える。


 記録面では、もう半世紀近く前にもなるが、年間最多42勝、30勝以上4度という、今ではありえない数字がある。1950年代後半の話であるから、当時は投手のローテーションも、スターター、セットアッパー、クローザーなどというスマートな役割分担などもなく、実力があって調子のよい投手はまるで野手のように、先発に抑えにと連日登板することも当たり前だった。その結果がこの数字であり、当然ながら肩やひじの酷使によって投手寿命は短いものだった。「太く短く生きる」ことが美徳とされていたのではないかとも思える。


 そういう意味では精神面での教訓はともかく、あまり現代のプロ野球には参考になるような話はなさそうだが、稲尾を知る人からすれば、いろいろと影響を受けているようだ。

 野村監督は、どんな球種でも同じフォームから投げてくる稲尾との対戦で、その投球のクセをなんとか読もうと研究して、投球や配球の読みを鍛えられたという。
 落合監督は、稲尾がロッテ監督時代に最大の理解者だったそうで、打者と投手という立場でありながら、その心理を選手と監督の関係を超えて始終野球談義ばかりしていたそうである。落合はそれが財産になったという。落合がやはり読みで打つタイプで、ロッテで3度の三冠王になっていることからそれも頷ける。


 また相手打者を打ち取る球から遡って配球を組み立てる、いわゆる「逆算のピッチング」を編み出したのも稲尾だそうである(稲尾和久 Wiki)。それを編み出したのが、長嶋監督は仲間だったと言っていたが、伝説になった日本シリーズ3連敗からの奇跡の4連投4連勝のときに、その長嶋相手に開眼したのだそうである。


 ところで「鉄腕」というネーミングは手塚治虫の「鉄腕アトム」より先だったのだろうか、アトムになぞらえたのだろうか。当時は鉄腕だの鉄人だの、おそらく産業も「鋼鉄」が最も強い時代だったのだろう。