ゆとり教育の「失敗」

 土曜、日曜はネットニュースが更新されなくて新しいネタに乏しいので、やや真面目な話題について取り上げよう。世間でよく言われるようになった「ゆとり教育」の失敗ということである。

なぜ「ゆとり教育」は失敗したのか?(NBonline)

こういうときに言われるゆとり教育とは、あくまで文部省(文部科学省)が作ってきた指導要領と、それを忠実に適用してきた小中学校の教育現場で、平均学力が低下しただの、国際的に比較して順位が下がっているということを問題にしているだけのように思える。少年犯罪の件数うんぬんなどは、また別の社会的要因の話だろう。


 自分の考えでは、そもそも学校教育には成功も失敗もない気がする。どんなカリキュラムだろうが時間数だろうが、伸びる子供は伸びるし、箸にも棒にもかからない子供は残念ながらそのままだ。大人が思っている以上に良くも悪くも「三つ子の魂百まで」であり、小手先の教育でどうなるものでもあるまい。


 問題は画一的教育とか、存在しない「平均値的人間」を前提にしたような発想をやめるべきだと思う。つまりいくら画一的な教育の時間数だけ調整しても本質的なことは変わらない。
 学校からして週休2日(本当は誰が休みたいのかは知らん)になったのだから、その分もっと勉強したい子供にはさせ、もっと運動したい者にはさせるというように、適性に合ったことをやらせればよいだろう。それをやりやすい環境を、社会とかビジネスまで巻き込んで推進させればよいだろう。能力のある子供が伸びるチャンスの芽を学校も社会も潰すべきではない


 学力上位の、たとえば数学オリンピックなどで活躍するような子供のレベルとかその国の人口に対する割合は、先進国であれ発展途上国であれいつの時代もたいした変わらない。下のレベルもたいした変わらないだろう。


 もともと、ゆとり教育の発想は子供の数が多くて、受験戦争が過熱する傾向に対する反省から生まれたもののはずだった。学力上位の者にとっては、学校の時間数が減ろうがなんだろうが入学試験で勝ち抜かなければならないことには変わりはない。それをあまり勉強してもしかたがない、学力中間層とか下位層といっしょにして、一律に楽にさせてしまうところに問題があった。いや学力が中や下でも、スポーツには才能のある子供もいるかもしれない。それらを文部科学省や学校がいっしょくたにしてしまっていることが問題だろう。


 スポーツ分野でも、たとえば浅田真央だの石川遼などが幼年期から英才教育を受けてこれたのは、学校はあまり関係がなくて、親がそうした環境を提供できてきたからだろう。むしろ学校に足を引っ張られなかったから、現在があるといってもいいかもしれない。どのジャンルでもトップで活躍できているのは、2世ばかりの世の中になっていることを考え直した方がよいのではないか。親も環境も学校でも、あるジャンルの才能を持っている子供の個性を伸ばす環境には恵まれていないということだ。


 つまり学校は、一律の教育をする時間は最小限でもよいから、残る時間を子供の適性に合わせた能力を伸ばす時間に使えるように最大限のサポートをするべきだということである。いくら入学試験のエキスパートを多数養成しても、社会に出てからは何の役にも立たないものである。