世界のデジタル情報量がストレージ容量を超える

 ちょっと雲をつかむような話であるが、世界のデジタル情報が初めてストレージの容量を超えたのだという。ストレージ容量の方はハードディスクの普及数と容量を試算すれば数字が出てきそうだが、デジタル化が進んでいる世界全体の情報量というのは皆目見当がつかない。 

世界のデジタル情報量、初めてストレージ容量を超える(ITmedia)

 ストレージ容量を超えたというのは、デジタルカメラ、デジタルテレビなどの普及が大きいとのことだ。デジタルの動画が増えれば、あっというまに雪だるま式に容量が増えることは容易には想像される。文字情報中心では、たとえ大きな図書館全体の情報をデジタル化したとしても、その作業の手間は別として、現在ではたかが知れたものだろう。


 全世界でデジタル化された情報全体を「デジタルユニバース」というのだそうだが、コンピュータと接続可能な機器が扱うデータは全部含まれることになる。ただその中でもコンテンツやメールデータのような積極的な意味のあるデータに対し、ログや監視データのような消極的に記録されるデータに分けられる。後者を「デジタルシャドウ」というのだというが、2007年にデジタルシャドウがデジタルユニバースの半分を超えたのだという。つまりストレージ容量を超えたのは、デジタルシャドウが増えた分だといえそうである。


 ストレージを超えると、いずれデジタルデータの記録がいっぱいになってしまうのではないかという気もしてくるが、IPアドレスの枯渇ではないのだし、あまりそういう心配はなさそうである。現在は何でもデジタルデータに移行している過度的時代といえるのだろうが、何を記録するかよりは、むしろ何のデータは捨ててもよいかという判断が問題になってきそうである。


 紙の書類のデータの時代は、保管のスペースがなくなったり、保管を義務付けられた期間が過ぎればダンボール箱ごと廃棄するというような判断がされていた。郵便物のようなものも同様である。多くは引越しや転勤とか、組織変えのタイミングだったりした。
 ところがデジタルデータはコピーも簡単だから、なかなか捨てるというタイミングもない。またデジタル化されるのは現在のデータだけでなく、過去に遡ってのデジタル化もされ、ストレージの中はデータが膨らむ一方である。
 ケチケチとデータを廃棄する必要はなくなったが、何でも保存してあるデータに、どれだけ簡単にいつでもアクセスできるかというのは、また別問題である。今後クラウドコンピューティングなどが世の中に浸透してくると、ますます公のデジタルデータと個人のデータの境界も定かではなくなってくる。


 そろそろ個人のデータでもテラバイト規模になり、全世界規模ではエクサバイトやゼッタバイトという規模だという。別に全世界を相手にしなくてもよいのだが、個人でもデータのアクセスや管理について、そろそろ根本的に発想を変えていかなければならないのでは、という気がしている。