小中学生に携帯は不要の提言

 なんだか国が関わることなのかという気がしないでもない。教育再生懇談会が小中学生には基本的に携帯を持たせないようにと提言している。有害情報への警戒だとか、それだけネットや携帯の社会への影響力が大きくなってきたことの表れともいえるのだろうか。

「小中学生が携帯持つなら、通話とGPS限定に」教育再生懇談会が報告書 (INTERNET Watch)

 この手の国の息のかかった教育に関係する委員会の提言というのは、いつの時代にも現実からズレているような気もする。前内閣時代には提言まではいかなかったものの「塾は不要」などという発言が話題になった。もっと昔にさかのぼればゆとり教育」を提言したのもこうした委員会だったはずである。


 そのときどきの世相から場当たり的なことばかりで、本当に長期的に日本の将来のことを見据えた提言なり施策を考えることができないようにしか思えない。「国家百年の計」とはよく言ったものである。百年を見据えた内容が「携帯は持つな」「英語を小学校3年からやれ」「塾には行くな」という程度のことではないだろう。小泉首相の就任当初の「米百俵の精神」のスローガンはよかったが、その後の施策には実態がなかった。


 小中学生が携帯を持つかどうかを時の首相が「持つ必要はないでしょ」と自分の主観だけで物を言うのもどんなものか。一方で日本の携帯電話の国際競争力は落ちている。携帯キャリアからすれば国内需要を拡大するしかない。そうすると自ずと多機能を付けて低年齢層にターゲットを拡大して売り上げを伸ばそうとするしかない。そうした背景もあっての、低年齢層への携帯の普及があったのであって、教育上だけの問題ではないはずである。


 今の子供が携帯を持ちたがるのは、ゲーム機と同様で、みんなが持っているから仲間はずれになりたくないという意識であろう。大人が感じる必要性とは別次元の話である。お上からの指導の結果、携帯を持っている子供は今度は「不良」扱いにでもされるのだろうか。こんなことをいちいち国から指導されなければならないのも、それだけ親も学校も、携帯を買ってやるべきかどうか子供の顔を窺いながら判断できないからなのだろうか。昔ならば話は簡単で「ウチにはそんな金はない」の一言だった。そしてその時買ってもらえなかったという記憶が、その後に与える影響は大きい。自分も今でも新しいコンピュータに関心が持ち続けられるのは、当時欲しかったものが買ってもらえなかったという経験が影響していると思える。もちろん誰にでも当てはまることではないだろうが。