天才バカボンの生みの親が死去

 漫画家の赤塚不二夫さんがとうとう亡くなった。何年か前から入院して意識のない状態になっており、その間に看病していた奥さんも急逝したという話が伝わっていたからである。日本の漫画史上、この人の漫画は決してはずすことができないものである。それほどインパクトのあるものだった。世代的に、この人の漫画を読んで育って多大な影響を受けた人は少なくないだろうと思える。自分もその1人である。

漫画家の赤塚不二夫さん死去 (SANSPO.COM)

 「おそ松くん」に始まり、「もーれつア太郎」「ひみつのアッコちゃん」など、みな強烈な個性のキャラクタが出てくる。その中でも全盛期だったと思えるのは、やはり「天才バカボンである。単行本があれば、最初から最後まで、腹の底から笑いっぱなしだった記憶しかない。書店で立ち読みしていたときなど、笑いをこらえるのに必死だった。これが本当のギャグ漫画といえるのだなと、子供心に思っていたものである。だんだん大人になっていったせいもあるかもしれないが、その後、漫画であれほど笑えた経験はない。自分の精神形成上も大きな影響を受けたと思わざるをえない。


 赤塚流の手法なのだろうが、おそ松くんにしろ、ア太郎にしろ、バカボンにしろ、実は主役が一番無個性であり、頼りのないキャラクタである。むしろ周辺の取り巻きのキャラクタが凄い。主役がそのキャラクタに翻弄されることでストーリーが展開する。キャラクタは一度覚えてしまうと、みなそのマネをしたがるようになる。中高年世代で、いまだに驚くときに「シェー」などと言っている人さえいる。自分などは耳に残っているのは「レレレのレ?」である。下町のどこにでもありそうな光景を強烈にデフォルメした個性に仕立て上げる感覚は凄いと思った。「・・だ、ニャロメ」などという言葉も、意識していたかどうかはわからないが、実際にそういう言い方をする方言もあるそうである。


 漫画にモデルがあるというよりは、もはや現実の人が赤塚漫画のキャラクタに見えてくるから不思議である。その頂点に立つのが「バカボンのパパ」である。世間のオヤジ的要素を強烈にしたようなものであり、ムチャクチャやって勝手に「これでいいのだ」と言っているだけなのだが、どこか決して憎めない。オヤジはムチャクチャだが、ママは美人で気が利き末っ子は賢いなどというのは理想的な家庭の姿である。「西から昇ったお日様が東へ沈む」の歌詞で始まるテレビ版アニメを、家族で見た記憶もあるが、父親がバカボンのパパに親近感を覚えて喜んでいるように見えた。そしてバカボンのパパとは、実は赤塚不二夫という人そのものなのだろうと後になって思えるようになった。赤塚の周囲の人の証言からも、実際にそうだったらしい。


 漫画というものは、目をありえないほど大きく描いたり、人のサイズを3頭身くらいに描いたりとデフォルメするのが普通であるが、赤塚のように人間の性格を極端にデフォルメして、動物にさえしてしまうのは初めて見た気がした。そこに自然と笑いが生じ、その個性がぶつかり合うところで、さらに大笑いになる。その後もこんな漫画に出合ったことはなかった。やはり漫画というものは一代限りのものだろう。今は雑誌が売れなくなる時代であり、それによって漫画のスタイルも変わってくることになるだろう。一世を風靡した漫画の1つの時代が終わったということなのだろう。