SNSの足跡の踏み逃げの是非

 自分自身mixiのアカウントは2つ持っているし、MySpaceも日本進出の際に真っ先に登録したくらいだが、事実上は全く活動していない。SNSというシステム自体には興味は大きいし、自分でもSNSサーバーを立てたりすることもできるのだが、現状での特定多数のコミュニティに参加して活動する気力はわかない。やはり足跡機能が気持ち悪いということもある。

SNSのあしあと“踏み逃げ”を嫌うのは「社会人既婚男性」(ITmedia)

さて、いわゆる踏み逃げを嫌うのは自意識の強そうな若い女性が多いのかと思いきや、むしろ立派な社会人既婚男性や主婦が多いのだという。若い人はよくも悪くも自分への他人の関心には無頓着らしい。携帯メールと同様で、ごく親しい仲間同士だけで濃いやりとりができれば、不特定多数のネットユーザのことは気にならないのかもしれない。


 一方、社会的なステータスのある社会人男性ほど、相手が名乗らないのは我慢ならないという意識なのだろうか。自分だけ名刺を出しても相手がくれないのは礼儀知らずだと思うのと同じかもしれない。主婦はご近所の出来事はすべて知っていなければ気が済まないという感覚なのだろうか。


 どちらにせよ、ネットでのコミュニケーションが自由になってきたとはいえ、そこにウェットな人間関係がからんでくると、技術的なことや操作的なことと異なり、やっかいなものである。よい意味で匿名だからできる、文字だけだからできるということもあると思うが、コミュニケーションに便利だからといって、あらゆる場面でWeb camで顔を晒し、声を聞くことができることが期待されるだろうか。答えはノーであろう。顔を見たり、実名や身分、年齢を知った途端にコミュニケーションを遠慮したくなるケースもある。必要な情報のやりとりだけには有益だが、知りたくもない相手の個人情報を知ったところで、むしろコミュニケーションがうまくいかなくなるケースもあるだろう。


 SNSというものに何を期待するのか。もともとインターネットには完全にオープンな不特定多数の世界と、特定の相手とだけメールのやりとりをするローカルな世界がある。実はその中間くらいの緩い関係くらいで結ばれているのが、バーチャルな世界の本質ではないかという気もする。それが名を名乗れ、個人情報も晒せということになったら、むしろバーチャルな世界は崩れる。匿名の世界での犯罪などがあると、すぐにバーチャルの世界の存在そのものを否定するような論調もあったりするが、それはネットの世界が正しく捉えられていない気がする。もちろんネットを悪用する方もである。


 ネットやコンピュータの世界は昔から集中と分散の繰り返しである。かつてはメインフレームに集中していたものがインターネットによって完全に分散した。ネットが成熟してくると、再びある目的ごとに部分的集中が始まる。その1つがSNSであるともいえるだろう。過度の集中がなされると再び緩い分散が起こってくる。現在は、そうしたSNSの位置づけの試行が繰り返されている段階といえるかもしれない。