柔道・石井慧、プロ格闘技転向を正式表明

 やはり石井の決意は固かったようだ。北京五輪柔道金メダリストの石井慧が噂されていたようにプロ総合格闘技に転向することを表明した。21歳の金メダリストの転向とはいえ、何かその決意には十分な風格さえ感じられる。

石井慧、プロ総合格闘技転向を正式表明(SANSPO.COM)
【石井トーク】五輪前から決めていた

 その言動ばかりがトリッキーに報じられてはいたが、きわめて真面目でユニークな存在だと思える。園遊会天皇陛下から「ロンドンも目指されますか」と尋ねられたとき、はっきりと「目指しません」と答えていたのは、さすがに嘘偽りではなかった。むしろマスコミに対してならば、あいまいな返答をしていただろうが、やはり天皇陛下に対しては本当のことを話すべきだという意識が働いたのだと思いたい。その後マスコミにはとぼけたように言っていたので、批判する向きもあったが、石井自身の決意はすでに五輪前からあったという。


 とはいうものの、むしろ五輪で負けていれば、あるいは次のロンドンでの雪辱を目指す方に傾いていたかもしれない。しかし21歳で柔道では1度は頂点を極めてしまったことから、プロ転向に迷いはなくなったのかもしれない。周囲の柔道関係者は石井が何の相談もなしにプロ転向を決めてしまっていたことが面白くなかったのかもしれない。それが石井の言動をめぐっての柔道関係者との軋轢のようになったのかもしれない。柔道界からすれば北京五輪惨敗の中での救世主であり、絶対的エースになった逸材を失うことになるだろう。4年後までに石井ほどの人材が現れるのも難しいところだろう。


 さて俄かに騒がれた石井のプロ転向だが、歴史的に見ればしばしばあったことである。ただ昔は総合格闘技などという興行ができるプロは存在しなかったわけだから、ほとんどはプロレスに転向していた。日本人では力道山と戦って敗れた「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と柔道史上最強と謳われた木村政彦に始まる。石井も「尊敬していた」というブラジル出身のヒクソン・グレイシーだが、その父親エリオ・グレイシーとの柔道対柔術の他流試合に勝利している。しかしこの後、グレイシー柔術に日本の格闘家は何十年も勝てなくなる。それだけに当時の木村が表の柔道の試合ばかりでなく、いかにプロとしての裏の技も磨いていたかが窺い知れるのである。


木村政彦vsエリオ・グレイシー(1951)


 その後、プロに転向した柔道の大物といえば五輪にこそ出場できなかったが柔道日本一になった坂口征二坂口憲二の父)、小川直也、金メダリストの吉田秀彦瀧本誠らがいる。オランダでは東京五輪の金メダリストでジャイアント馬場全日本プロレスに参加したアントン・ヘーシンクがいる。その後柔道界の重鎮として戻り、北京五輪ではメダルのプレゼンターもやっていた。もう1人、猪木と異種格闘技戦を戦った金メダル2冠のイリアム・ルスカがいる。猪木を腕ひしぎ逆十字固めで絶体絶命まで追い込んだが、最後に猪木が鬼気迫るバックドロップ3連発で逆転したという壮絶な試合で有名である。その後の格闘技戦での腕ひしぎ逆十字固めの有効さが認められて、よく見られるようになったのはこの試合がきっかけであろうと思う。
 そして東京ドームでの猪木の初めてのプロレス異種格闘技戦に、旧ソ連からのペレストロイカ旋風と言われたミュンヘン五輪の金メダリストの柔道家として参戦したショータ・チョチョシビリがいる。この人はプロレスのバックドロップに相当する裏投げで有名な柔道家で、衰えの見えていた猪木を見事な裏投げで壮絶なKO勝ちを収めている。実は以後、ロシアからの格闘家が参戦するようになったのも、これがきっかけとなっている。


 時代は変わり、PRIDEのような組み手あり、寝技あり、打撃あり、キックありの総合格闘技が主流となっているが、そのきっかけとなったのはヒクソン・グレイシーの来日参戦であろう。プロレスラーが負け続け、日本人では誰が勝てるかという話題になった。小川の名前が挙がったこともあったが実現はしなかった。石井が夢を抱いたであろう少年時代の頃のことである。その後いろいろな格闘家は現れたが、最後に最強と思われたのが、小川も破れたロシアのエメリヤーエンコ・ヒョードルである。


 これまではプロ転向をするのは、第一線を退いて指導者になる前にもう一勝負してみたいということと食うために、というケースが多かった。石井の場合はどちらにも当てはまらずに、純粋に最強の格闘家を目指したいという気持ちが強いのだろう。「60億分の1」という言葉がそれを表しているだろう。「最強」という言葉が、ややもすれば単なる興行のためのキャッチフレーズでしかなかったりするのだが、石井は本気で最強のプロを目指そうとしている決意が感じられた。時代は違うが、現代の木村政彦を目指してほしいものである。